久坂部羊著「老乱」を読んで認知症・介護について考えてみる

高齢女性の手を握っている若い女性の手 考え方

超高齢社会になり、高齢者の数がとても多くなっている現代の日本では、家族の介護の問題を抱える家庭はたくさんあると思います。

しかし、まだ現実に起こっていなかったり、先のことだとするとなかなか考えようとは思わない人が大半かもしれません。

でも、久坂部羊著「老乱」を読んで、その「いつか」に向けて考えるきっかけになりました。正解や答えはないかもしれませんが、考えることや向き合うことによって見えてくることもあるかもしれません。

ぜひ、それぞれの家庭で話題にしてみてください^^

あらすじ

杖をついている高齢男性

もともと穏やかで家族思いだった男性が高齢になり、一人暮らしをする中で認知症の症状がだんだん重くなっていき、その認知症である男性とそれを取り巻く家族の物語です。

できていたことができなくなる、分かっていたことが分からなくなる、自分が自分でなくなっていく恐怖。

そして、冷たく、辛くなっていく家族からの言葉や対応。しかし、家族としても何とか認知症の症状を悪化させないようにしようと必死に試行錯誤をしている結果です。

すれ違っていく心、悪化していく状況、誰もが辛く苦しい思いを抱えて家族の状態はめちゃくちゃになります。

認知症になってからも、意識がはっきりしている時もあり、邪魔者扱いをされることに傷付き、面倒をかける存在になってしまったことに落ち込む男性。

いろいろなトラブルも巻き起こしてしまいます。それは突拍子のない行動で、周りからするとなぜそんなことをするのか理解不能で、いろんな人に迷惑をかけてしまいます。

それでも、当の本人からするとその時はちゃんと理由があって、必死に行動した結果でした。しかし、自分がやったことも、やった理由も忘れてしまいます。

トラブル続きでどうしたらいいのか途方に暮れる家族。もう死んで楽になりたいと願う男性。そんな家族にどんな結末が訪れるのでしょうか?

介護と認知症

高齢女性の背中に手を当てる若い女性

この本を読んで老いと介護、認知症についてすごく考えさせられました。

元気であった頃の男性から認知症が進み始めてだんだん思考がおかしくなっていく過程、当人の困惑、感情の変化、そして家族の苦しさがとてもリアルに描かれていました。

本当に認知症の家族を支える家庭というのは、こうした苦労やトラブルを背負いながら闘っているのだと思いました。

誰もが若いころは病気などがなければ元気で、いつまでも元気でいられると思います。

しかし、老いと死は確実に誰にでも訪れます。得意だったこと、自信があったこと、日常生活さえもだんだんとうまくできなくなってしまいます。

どんどんできないことが増えていくことや、認知症になってだんだん自分が自分でなくなっていくのはとても怖いことだと思います。

まだらボケと言って、意識がはっきりしている時と認知症の症状が出ている時が切り替わる場合もあります。

その場合、意識がしっかりしている時に周りから、「認知症の症状が出てこんなことをした」と言われても「そんなはずはない!」という気になってしまいます。

また、意識や行動、言動がしっかりしている時もある分、高齢によるうっかりや物忘れと判別が付きにくく、認知症の発見が遅れる場合もあります。

家族や本人として、少し「おかしい」と感じることがあっても、「気のせいであってほしい」という願望が余計にその問題を直視できなくしてしまうのかもしれません。

介護が必要になったら?

高齢男性に手を貸す若い男性

家族に介護が必要になったら、まずは安全の確保が必要です。

高齢で一人暮らしをしている場合、まだ自分のことがある程度できるのなら、在宅でヘルパーさんに来てもらって、できないことは助けてもらいながら生活することができます。

しかし、認知症になり症状が進んでいくと、日常生活を送るにもできないことが増えたり、火の不始末から家事を起こしてしまったり、転んでケガをしたり、事故に遭ったりする危険性も高まります。

そうなると、一人暮らしは難しくなり、誰かが一緒に住むか、家族の家に迎える、それが難しければ施設に入ることになります。

特別養護老人ホームに入居するには何年も待たなければならない場合があり、施設への入居が必要になってもすぐに入ることは難しいと言われています。

介護付きの有料老人ホームなどもありますが、こちらは入居する段階で入居一時金と言って数百万円もかかります。月々の費用も特養よりも高額になり、多額の資金が必要となります。

家で介護する場合は、専属で誰かが介護する必要があり、とも働きの家庭の場合はどちかかが仕事を辞めなければならないこともあります。

何が必要?

ハートを持った手とたくさんの医療器具

介護が必要になると、いろんな課題が見えてきます。仕事やお金、時間、自由、心の余裕、何を優先して何を選択するのか考えておく必要がありますね。

仕事もお金も時間も自由も心の余裕も生きていくためにはどれも大切なものです。

子どもがいる家庭なら、自分たちの老後資金だけでなく、子どもの養育費や教育費も必要です。やりがいや楽しみも大切で、介護をすると全てなくなってしまう…。

そう感じる人もいるかもしれません。でも、この本を読んで一番大切なのは向き合い方なのだと学びました。

もちろん仕事もお金も必要。家族みんなが生きていくために働いてお金を稼がなくてはいけません。介護が必要な家族を施設に入居させる場合はその費用も必要です。

家で介護をする場合は、自分の時間を介護に当てなくてはいけません。さらに、認知症になっている場合は穏やかに過ごすことができず、トラブルが起きたり、暴言や暴力を振われることもあるかもしれません。

さらに、家族が自分のことも誰か分からなくなってしまうのは悲しいですよね。もともと、穏やかだったり、優しかったり、しっかり者だったり、お世話になったりした家族が別人のようになってしまう。

それがショックで「こんな人じゃなかったのに」「変わってしまった」と思うかもしれません。

それでも、できるだけお互いが穏やかに暮らせるためには認知症とどう向き合うかです。家族は変わってしまったのではなく、もともとのその人らしさとは関係なく、病気によって患っている状態なのだと思います。

どんなに優しく寛大だった人でも、意地の悪いことを言ったり、こちらを責め立ててきたりするかもしれません。

そうなると、「もともと優しかった母・父」ではなく、「認知症である母・父」という認識に改めなければなりません。

認知症の人に何かを問いただしたり、責め立てても、文句を言っても何も生まれません。認知症の家族を目の当たりにすることは辛く、苦しいことだと思いますが、「認知症を治そうと思わないこと」が大事といいます。

治そうと思うと、悪化していくことに絶望してしまいます。けれど、認知症を治す薬はありません。進行を遅らせることができるかもしれないというだけです。

しかし、改善することを目標にしていると「何でできないの!」とイラしてしまいます。

家族の心情としては難しいことですが、「よくなることはない」と腹を括って、「認知症とともに生きる」「認知症と付き合っていく」ことが大きなポイントなのだと思いました。

認知症の人は、例えば怒っていてもそのこと自体を忘れてしまうし、自分のしたこと、言ったことも忘れてしまいます。

人に何かを言われても理解できないこともあります。でも、人から優しくされる心地良さや、嬉しさ、怒られたり責められる怖さや嫌悪感は感じているといいます。

「もう何も分からないだろう」と思って本人の目の前で他の人と介護の文句を言ったり、本人に向かって怒りをぶつけたりすると、何を怒られているのかは分からなくても、「怒られている」ということは感じます。

怒られ続けているうちに、萎縮してしまったり、怒られないようにしなきゃと考えるあまり、追い詰められて逃げ出そうとしたり、突飛な行動に出てしまったり。

しかし、優しくされたり、褒められたり、笑顔で接せられていると、何を褒められているのかは分からなくても何だか嬉しい、心地よい、良かったという感覚は残ります。

そのことで、被害的な妄想が和らいだり、トラブルを起こしてしまうことが減ることもあるのかもしれません。

幼い子どもと同じで、理屈で責め立てたところで伝わらず、怒られてただ「嫌な気持ち」だけが残ります。

赤ちゃんや小さな子どもに接するつもりで、こちらの都合を押し付けたり求めたりしても伝わらない、仕方がない、と考えることがいいのかもしれません。

「ただ、ここで今を生きる」。赤ちゃんも認知症の人もそうして時間を過ごしているのではないでしょうか。

そこに特別な意味や価値、理由、考えといったものはなく、純粋に「快と不快」を感じながら生きているのだと思いました。そうだとすると、本人にとって「快」と感じることを大切にしていくのが大事なことかもしれません。

期待せず、求めず、ただ生きていることにありがとう。そんな風に思えればベストかもしれませんが、現実はそんなに甘くありませんよね。

綺麗ごとや理想論ではうまくいかないかもしれません。これは、「そういう考え方もある」という一つの考え方なのだと思います。

同じ言葉を聞いても、誰もがそう思えるわけでもなく、人にはその人に響くタイミングというものがあります。

人生の中でいろんな人と出会い、いろんな出来事を経験し、乗り越え、さまざまな失敗や成功を体験する中で、あるときふっとその言葉の意味が心にすとんと落ちる時があります。

そうした意味で、こういう考え方もあるということをわたし自身も知っておこうと思います。頭の中に入れておくだけでもいいので、覚えておいてもらえたらいいんじゃないかなと思います。

今できること

手を繋いで並んでいる家族

実際に、介護が必要になったり、認知症の症状が起きた時に、どうすれば慌てずにすむのでしょうか。

今できることは、予防と対策です。予防では、できる仕事を続けたり、普段から軽い運動を続ける、人と話したり関わるコミュニティを持つ、指先や頭を使う作業をする、趣味を持って仲間と楽しむなど。

こういったことをできる範囲で続けておくことは、高齢になっても心身ともに元気でいられる秘訣かもしれません。

「わたしは大丈夫。いつまでも元気でいるし、ボケもしない」と前向きでいることはいいことですが、だから現実的に考えないというよりも、「誰もがいつかは老いるんだ」と受け入れることが大事ですね。

だからこそ、できるだけ長く心も体も元気でいられるようにと考え、工夫ができます。

そして、体が自由に動かなくなった時のことを家族も本人も考えておく、想定しておくということも大事です。

「こんな風に暮らしていきたい」「こうしていきたい」「これは嫌だ」という意思を伝えておく、話し合っておくといいですね。

実際にその時になってみると、その通りにはいかないものかもしれませんが、本人の希望とどれだけそれに添えるかは事前に考えたり、準備をしておくことでプラスに働くのではないかなと思います。

介護が必要になったり、認知症になってできることが減っていくと、自分はダメな人間だと感じ、尊厳や自信が失われていってしまうことがあります。

生きていく希望や目標を失って生きていくことは辛いです。本人や家族が「前向きに生きていくためには?」ということを考えることが大事ですね。

どう死にたいか考えることはどう生きたいか考えることです。本人と家族が笑えることが大事だと思うので、まだ元気な今だからこそ少しずつ誰にでも訪れる「老い」について考えてみましょう。

老いを否定するよりも、その中でどう生きていきたいか、そのためには何ができるのか考えると今できることが見えてきます。

施設に入ることを前提に資金を貯めたり、いずれ一緒に住めるような家を選んだり、介護の勉強をしてみたり、趣味を見つけるのもいいかもしれません。

人生はどうなるのか分からないものです。しかし、家族の笑顔のために思いを巡らせて未来を考えておくことは、きっと無駄にはならないのではないでしょうか^^

実際の介護とは、そんなに生易しいものではないかもしれませんが、自分たちの家族や介護を必要としている家庭が、できるだけ穏やかに、あたたかい空気に包まれる瞬間が多いことを願っています。

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