家族がすごく仲良しの家庭、仲が悪い家庭、特別仲が良くも悪くもない家庭、世間にはいろんな家庭があると思います。
また、こんな風にシンプルに分類分けできない微妙なバランスで成り立っている家庭もありますよね。
別居と離婚を経験した両親のそれまでとこれからの生き方について考えてみます。
子ども時代

子ども時代のわが家はというと、家族5人と犬が3匹いるどこにでもあるような平穏な家庭でした。
やりたいことはやらせてもらったし、何不自由なく育ててもらいました。この平和な生活や不自由なく生活できることがありがたいことだったのだと気付いたのは大人になってからです。
父はいわゆる亭主関白で、父の言うことを聞くのが当たり前の日常でした。とは言っても、父がいつも横暴なことを言ったり、何かを強要するというわけではありませんでした。
ただ、「家族」というものを重んじる考え方だったので、家族で居間に集ったり、休みの日に遊びに行ったりと、父がそうしたいと思ったときにその通りにならないと一方的に怒るということがありました。
ある時、父が家族で遊びに行こうと誘った時、年頃になった姉が「行かない」と言ったことに怒り、それを止めた母に対しても激怒していました。
他にも、小学生のころこんなことがありました。休みの日にわたしが自室にいたところ、「こんなテレビがやってるよ」と居間から声をかけられました。
「うーん」と返事をしながらも居間に行かないでいると、怒りながらどんどんと音を立てて階段を登ってきて怖かったことを覚えています。
でも、そういった子どもに怒ることよりも日常的にあったのは、母への当たりの強さ。
食事の準備や出てくるメニュー、タイミングなど父の思うようにいかないことをキツイ言い方で母によく当たっていました。
母は言い返さずに黙っていたので、そんな父の言葉を聞くたびに「何でそんな言い方するの?」と理不尽に感じていました。
こちらの言い分も聞かず、何か言ったとしてもそれは「口答え」ということになり、余計に怒りに触れてしまいます。
そうして、父に楯突くことがなくなり、わたしや恐らく家族ににとっても父は恐れの存在であり、好きにはなれない存在でした。
両親の別居

わたしが大学を卒業して社会人になった年、母から家を出るという話を聞かされました。
大学の頃からわたしは実家を出て、一人暮らしをしており、そんな話は全然聞いてなかったのでびっくりしました。
父に話を切り出した時にはもう新しく住む家を決めており、荷物も少しずつ整理して運び出していたという話でした。
父なりの家族愛を母や子どもに求める一方、それは独りよがりなやり方であったことを子どもの頃から見ていたので、母を責める気持ちにはなれませんでした。
「母が決めたことだから、まぁいいんじゃないかな」という感じでした。誰よりも驚いたのはきっと父で、突然突きつけられた別れに衝撃を受けたと思います。
父なりに母のことを好きだったと思うので、父はこれからも母と2人で生きていくつもりだったし、それができなくなるとは夢にも思っていなかったと思います。
父は離れることなく何とかしたかったようですが、母の決意は固く、揺るぐことはありませんでした。
心の整理

母が一人暮らしを始めてからも、わたしは母とは会ったり、一緒に食事をしたり、泊まりに行ったりということをしてよく話もしていました。
それでも、ふとした時に「もうあの頃の両親がいる実家に帰れることはないんだな」と思った時、複雑な気持ちがこみあげてきました。
母を責めたくはなかったけれど、やっぱり子どもにとって親は親なので家族がバラバラになってしまったことが寂しかったのだと思います。
最初から母の決心には理解していましたが、頭と心で感じることは少し違っていたようです。
あとからじわじわと寂しさや複雑な気持ちが湧いてきて、心の整理がつかず、母と少し距離を置いたこともありました。
やっぱりもう家族で集えることはないこと、母のいる実家に帰ることができなくなったこと、寂しかったり切ない気持ちがあることを母に伝えました。
すると、母はその気持ちを受け止めた上で「ごめんね」と謝ってくれました。自分の気持ちを理解して受け止めてくれたことで、自分の気持ちに区切りをつけることができました。
それから数年して、父の気持ちの整理がついたころ両親が離婚届を提出し離婚が成立しました。
母の生き方

両親の別居から10年が経った今、父はもといた実家で、母は一人暮らしをしてそれぞれの生活を送っています。
母は、需要のある介護職へ転職し、その中でやりがいを見出し、勉強して資格を取ったり、いろんな形態の介護施設を経験し、自分に合った場所で働いています。
高齢になっても、できるだけ働き続けられるように、体の負担が少ない介護施設の仕事を選択しています。
また副業として、得意な裁縫を生かしたハンドメイド作品を作って売ったり、好きなスポーツをしたり、友達と旅行に行ったり、いろんな趣味を楽しんで人生を謳歌しています。
成人してから、一度も一人暮らしをしたことのなかった母にとって、今が一番自由な時間かもしれません。
自分の好きな時間に寝たり起きたり、食事のタイミングや準備も自分の好きなようにできます。部屋もこじんまりとして掃除も楽で、洗濯物も自分の分だけ。
別居して初めてそんな生活を手に入れた母は、まさに今、自分の人生を生きているのだと思います。
わたしが嫁いだことで、母とは遠く離れてしまいましたが、今でもよく連絡を取り、何でも話せる関係です。
結婚や出産を経て、子育てや新しい生活の中で大変なこともありますが、いつもわたしの話を聞いてくれ、応援してくれています。
そんな母の支えもあって、何か落ち込むことがあってもまた前向きに頑張ることができています。いつも味方でいてくれて、そっと見守ってくれていることに感謝です。
父の生き方

一方、父は人付き合いが苦手なため自営業を営み、友人も作らず仕事一筋で職人として生きてきました。
子どもが小さいときは、子どもとよく遊んでくれ、ギャンブルもせず、一生懸命働いてくれたことを感謝していると母は言っていました。
趣味も少なく、仕事以外に打ち込めるものは特になさそうな父でした。仕事と家族。これが父にとってすべてだったのだと思います。
そのため、今は毎日忙しく仕事をして、一人の家に帰ってご飯を食べて、洗濯をし、寝るという生活の繰り返しです。
休みも極端に少なくずっと働いていますが、「休みがあってもすることがないから休みはなくていい」と言っています。
忙しく働いていた方が気持ちが紛れるのかもしれません。無理をしているせいか体に不調も出始め、それでも病院に通いつつも仕事を続けています。
人一倍、家族に絆を求めた父が今、実家で一人で暮らし、これといった楽しみも見出せず、ただ黙々と仕事をすることを目的として生きています。
それでも、いろんな経験を経てだんだんと丸くなってきた父とは、今はある程度良好な関係を築くことができています。
わたしに子どもが生まれたことにより、連絡を取ることも増え、孫の成長を喜んでくれているようです。
二人の人生

30年近く続いた結婚生活の中で、母がいつから離婚を考えていたのかは分かりません。
でも、協力して楽しんで子育てをすることもできず、キツく当たられ、きっと何年も何十年も我慢していたのだと思います。
そうして、末っ子であるわたしが就職する時を待って、ようやく親としての役目に区切りをつけ、自分の人生を歩む決心をしてその一歩を踏み出せたのだと思います。
今の父の生活は寂しいものになってしまいましたが、それは母との結婚生活の中で自分のこと振り返ったり、夫婦の問題を話し合ってこなかった代償なのだと思います。
うまくいっていて問題がないと思っていた父にとって、話し合いなど必要だと思えなかったのかもしれません。
今は一人で暮らしているため、仕事もして、家のことも自分でやって、地域の組合の役割もあってかなり忙しいようです。
苦手だった人付き合いも、地域の中でせざるを得なくなった今、これまで仕事だけに力を注げたのは、母の支えがあったからなのだと身に染みているのではないでしょうか。
父がしてこなかった人付き合いや人と向き合うということが、今、父の人生に跳ね返ってきています。この代償は大きかったと思います。
父は今、自分の人生をどんな風に受け止めているのでしょうか?
人生の後半で別居と離婚という大きな壁に直面し、家のことを何もしてこなかった父が、その年で初めて家事をやり、一人で生きていくのは大変だったと思います。
でも、人生の勉強をしたと思ってこれを生かして、これからは自分の人生を前向きに生きていってほしいなと思います。
心の羅針盤

どんな立場でも、いくつになっても、自分を振り返る心を持っていることで人はいくらでも変わることも成長することもできます。
でも、その心を持てずに自分のことしか考えられなくなったとき、きっと人は自分から離れていってしまいます。
人の気持ちになって考えたり、人を思いやる心が人と繋がっていくためには欠かせないものなのだと感じています。
わたしが夫と楽しんで子育てをしていることを母は「いいなぁ」「そんな風に子育てしたかったな」と言ってくれます。
過ぎてしまった時間は戻せないし、生きてきた人生をやり直すことをできませんが、今からどう生きていくか選択することはできます。
何をどう選択し、どんな道を歩んでいくのかは自分にしか決められません。それを行動に移せるのも自分だけです。
どんな人生したいか、どんな風に生きていきたいか心の羅針盤を持って、挑戦と失敗や成功を繰り返しながら、自分の求める生き方を模索していきたいですね。
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