一生懸命子育てをしていても、うまくいかないとき、心が疲れてしまうときってありますよね。子どもにイライラしてしまったり、その気持ちをぶつけてしまったり…自己嫌悪に陥ることもあると思います。
母親は特別だと思っていたのに、子どもが自分以外の人に懐き、必要とされているように感じない…。そんなこともあるかもしれません。
でも、大丈夫です。うまくいかないことがあるのも普通のことです。子どもにとって、母親は大事だし、それ以外の人も大事なんです。
自分自身が不安に陥った体験とそこから回復した過程を紹介したいと思います。
必要とされている?

小さな子どもにとって母親は特別な存在で、そばにいたがる、離れると後追いをして泣くというイメージがわたしにはありました。
しかし、1歳4ヶ月のわが家の息子はわたしと離れても平気で、義父母の家に遊びに行ったり、外で義父母の姿を見ると一目散に歩いていき、「抱っこしてー」のポーズをとります。
それでも、最初の方は「だいすきなんだな」「可愛がってもらってるな」と微笑ましく見ていました。
ある日、みんなで外食に行ったときのこと。座敷の席に着くなり、義父母の膝の上に座る息子。ウロウロしていましたが、基本的に戻るのは義父母の元でわたしや夫の元にはあまり来ず(笑)わたしは正直ショックでした。
義姉の息子が義姉にべったりで、遊びに来たときも基本的に義姉がいないと探したり、後を追ってずっとくっついていたからです。
そういう姿を見ていたわたしは何となくそういうものだというイメージがあったので、生まれてからずっと一緒にいる自分でなく、他の人に懐いているのが複雑な気持ちになってきました。
すっかり歩けるようになって、外で遊ぶのも好きなようで、石や土、葉っぱを触ったり、歩いたりして楽しんでいます。でも、義父母の姿を見ると遊びそっちのけで「抱っこ」。
わが家で抱っこをしていないわけではなく、家にいると基本的にわたしの元へ来て、そばにいたり、抱っこを求めると抱っこしています。
でも、それも義父母が同じ部屋にいたら自分のところではなく、義父母の方へ行くんだろうな…と思うと、「わたしは必要とされてるのかな…」寂しくなってきてしまいました。
子どもへの見返り

生まれてから毎日一緒にいて、どんなときも母乳をあげ続けて、お世話をしてきたわたしが子どもにとって一番特別な存在なのだと思っていました。
そうであってほしいし、そういうものだろうと思っていました。でも、自分がいない空間でも寂しがる様子もなく、平気で遊ぶわが子に複雑な思いを持ってしまいました。
子どもが生まれたとき、「この子が元気で生きていてくれたらそれでいい」と思っていました。
それなのに、いつの間にか「子どものためにこれだけやってるんだから」「子どもも自分を求めてくれるはず」という見返りを求めていたのかもしれません。
母の言葉

「わたしは子どもにとって何なんだろう…」「別にいなくてもいい存在なのかな」と思ったある朝、何だか無性に悲しくなってしまって、泣き出してしまいました。
「子どもに必要とされていないんじゃないか」そう思ったときに、子どもの目が本当にそんな風に思っているかのように見えました。
すると、いつものようにかわいく思えない自分がいてびっくりしました。自分に自信がなくなって、必要とされていない気がして、心が荒んでいき、そうして人は追い詰められていくのかもしれないと思いました。
子どもがかわいく思えなくなって、そんな自分も嫌で、でもそこから抜け出せなくて深みにはまって苦しんでいる人もいるのかもしれません。
わたしがここで自分を取り戻せたのは、母と夫の言葉があったからでした。モヤモヤした気持ちや悲しい気持ちで、「こんなことがあった」「わたしは必要とされていないんじゃないか」と母に話しました。
すると、母は「そんなことないよ」「ちゃんと子どもを依存せずに育ててるから安心して義父母のところに行けるんやで」「どんな母親でも子どもにとって母親は特別な存在」だと言ってくれました。
この「依存せずに育ててるから」というところにすごくしっくりしました。抱っこもするし、遊んだりもしますが、家の中で忙しく動き回ってるわたしのそばで、自分でおもちゃを使って遊ぶことが多い息子。
ネントレをして、寝かしつけも抱っこやおっぱいでせず、自分で布団で寝ています。外で遊んでいても、べったりそばにいるのではなく、少し遠くから見守ることもあります。
転んでも、すぐに手は貸さずに見守っていると、自分で立ち上がって歩き出します。普段やっている関わり方が、子どもが親に依存せずに育てることになっていて「なるほど、確かに」と腑に落ちました。
心の安全基地

夫にもその話をしました。すると、毎日子どもと関わっていると、「子どもから求められる」ことや「子どもに好かれる」ことを求めてしまうのかもしれない。
だけど、そうではなくて「子どもが自分の力で生きていけるための手助け」をするのが親の仕事だと思う、と言っていました。「子どもにどう思われるか」ではなく、「子どものためにどうしてあげるか」なんじゃないかと。
子どもがどう思うかではなく、自分たちは子どもの幸せを願って、できる範囲の手助けや応援、見守りをして安心できる場所を作るのが大事なんだなと気付かされました。
自分たちの役目は子どもの心の安全基地であることなんだな、と。子どもにとって心の安全基地があることは、しんどいことや大変なことがあっても頑張ることができる力になります。
安全基地があることで、思い切って挑戦したり、冒険することができて、そうしてまた安心できる場所に帰ってくるんだなと思います。
そうして心や体を癒して、力をためて、また再チャレンジしたり楽しんだりすることができるんだなぁと思いました。ちょっと卑屈になって心が荒んでしまいましたが、母や夫の言葉で自分を取り戻すことができました。
「子どもはいつか離れていくもの」「今から心の準備をしていこう」とも夫から話されました。ただ、わたしは子どもが手を離れていくこと自体が嫌だったわけではありません。
まだ1歳という親が恋しいだろうと思う時期に、すでに親がそばにいなくても平気で、ずっと一緒にいた親よりも義父母を選んでしまうことに淋しくなってしまったのです。言えば、嫉妬したわけですね。
子どもが自分の世界を広げていくのはいいことだと思っていますが、いざ自分ごととなると思ったよりも平静を失ってしまうことが分かったので、子どもが成長していくことの心の準備もしておこうと思います。
親は子どもの応援団

「子どもにとって自分が一番特別な存在でありたい」とわたしは思っていました。そう思うと、そうでないんじゃないかと思ったときに不満が出てきてしまいます。
そうではなく、子どもの周りに子どもを見守ってくれる人や可愛がってくれる人がいることは、子どもにとっていいことなんですよね。
親だけでなく、祖父母や近所の人などいろんな人と関わったり、遊んでもらったり、見守ってもらえることが子どもの安心に繋がったり、いろんな人と関わる練習にもなります。
わたしは親は子どもの味方で、応援団だと思っていますが、その応援団も親だけじゃなく、みんなで応援できればそれも子どもの力になるのかなと思いました。
そういう人がたくさんいてくれることは、本当はありがたいことだと気付きました。子育てをしていれば、疲れることも、不安になることもあります。でも、それは当たり前です。
そういうときに、誰かに話を聞いてもらえることが大事なのだと思います。子育ては大変ですが、誰かに「大丈夫だよ」と言ってもらえるだけで救われます。
ごはんをひっくり返されてイライラしたり、忙しくてなかなかゆっくり遊べなかったり。そんなときに自分以外の人に懐かれると寂しい気持ちや不安な気持ちになってしまうこともあります。
子どもを抱きしめながら泣いてしまうときもあります。でも、泣いてもいいんです。正論だけではがんばれないときもありますよね。
泣いて、少し落ち着いたら誰かに話を聞いてもらいましょう。そして、話を聞いた人は「大丈夫だよ」と言ってあげてください。
そうすることができれば、親自身も心の落ち着きを取り戻して、また前を向けるのかなと思います。それぞれみんな役割が違って、でもちゃんとみんな必要です。子どもにとって大事な存在です。
そして、子どもは大きくなっていきますが、いつまでも子どもにとって安心して帰れる場所であり続けたい、心の安全基地であり続けたいと思います。
「いろんなことがあると思うけれど、いつまでも味方でいるし応援してるから、またいつでも帰っておいで」
そんな風に言ってくれる存在がいたら、子どもたちも安心していろんなことに挑戦したり、自分の世界を広げていけるのではないでしょうか^^
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